考察

咀嚼

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咀嚼 論文

近年、子どもや若年者がやわらかいファーストフードや健康補助食品などを多量に摂取することによる弊害や、高齢者の摂食・嚥下障害に大きな関心が寄せられています。

「摂食」は、食物の認知から嚥下までの広い範囲を意味します。一方、「咀嚼」は、よく噛んで噛み砕く過程を意味します。

食べ物の「おいしさ」は、しっかりと噛みしめて味わうことによって感じられるものです。食物のおいしさを感じ健康で人間らしい生活を送るためにも、口から食べてしっかり噛んで味わう過程、すなわち咀嚼はとても大切なのです。

咀嚼は、口の開閉、唾液の分泌に加え、舌による食物の混和など、複雑な運動の組合せで行われます。しかも、歩くこと(歩行)や呼吸と同様に特に意識しなくても自動的に行われますが、意識して早めたり、逆に遅くさせたり、さらに止めたりすることもできます。神経生理学的には、咀嚼・歩行・呼吸に関わる神経回路が脳にプログラミングされた生きるために重要な運動であることが明らかにされています。

最近の研究では、よく咀嚼することは、まず第1に唾液の分泌が促進されることから、食道や胃の粘膜の保護、食物の発ガン物質の働きの抑制、第2に脳内血流が増加することから、脳の広範囲な部分を活性化してボケ防止、第3にエネルギー覚醒の高揚から、やる気を出させる効果、第4に肥満中枢のコントロールから、肥満防止、糖尿病予防、第5に咀嚼筋やそれに関連する顔面筋の活性化から、姿勢問題の防止、視力低下の防止、第6に食物を小さくし食塊を適正な大きさにすることから、抗原性を弱め、各種アレルギーの予防、第7に骨代謝の増進から、骨粗鬆症の予防に繋がることなどが分かってきています。

また、小児では、硬いものをよく咀嚼すると、脳の発育を活性化し、運動能力や体のバランスを向上させ、口や顎の正常な発育を促します。そのため、発育不全による睡眠障害、情緒的問題、虚弱体質などの予防にも繋がることがわかってきました。

そして、高齢者では、よく咀嚼しないと、学習、記憶、自立度、認知、全身的な運動の持久力などの低下が見られ、気分の落ち込みにも関連する可能性があります。

きちんと噛んで食べるという動作、つまり咀嚼は、人間にとっては生命の維持に直接的にかかわる、身体的にも精神的にも不可欠な行動であるといえます。

もちろん、健康な咀嚼をするためには、口や顎を含めた咀嚼系の諸器官が十分な機能を営めるように、主に中枢神経、顎関節、咀嚼筋群、歯で構成される咬合(かみ合わせ)が健全であることが条件となります。実際に咬合の機能を回復しますと、前にも述べた様々な問題が改善あるいは是正され、それは特に高齢者で著しいことがわかっています。

高齢者にとって「食」は、それ自体が生きがいになるとともに、誰かと食事を共にすることによって、人間関係を豊かにする場を提供する機会ともなります。したがって、食のスタイルに影響する咀嚼能力は、高齢者の自立や社会生活、さらには生活の質「QOL」とも深くかかわっていることが予想されます。そこで、自立高齢者あるいは要介護高齢者の自立度、社会生活、QOLに関連した調査から咀嚼の意義を調べる必要性があります。

要介護高齢者を対象とした調査で、適合の悪く、うまく噛めない義歯を装着している人たちのほうが、自立度が低い人の割合が高くなりました。また地域在住高齢者を対象とした調査において、「最大歩行速度」や「血清β2-ミクログロブリン」とともに「咀嚼能力」が、寝たきり予備軍である「準寝たきり」の発生因子のひとつであることが認められました。このことにより、寝たきり予防対策として、咀嚼能力の確保が重要だと指摘されています。

有料老人ホーム入居者を対象で、咀嚼能力ならびに東京都老人研究所が開発した「老研式活動能力指標」を用いて生活機能を評価した結果、咀嚼能力は人との交流に深く関係する「社会的役割」に属する項目と関連性が認められました。

一般的に社会とのつながりが希薄化する高齢者にとって、「人」や「社会」との関係は心身の健康に大きく影響します。したがって、両者とのつながりを少なからず左右する咀嚼能力の問題はQOLにもかかわる重要な意味をもつと考えられます。

地域在住の65歳以上の老人を対象としたアンケート調査で、歯の喪失が生活の満足度を低下させるとの報告があります。QOLを評価するための指標として用いた生活満足度に対して、自分の歯の数の少ない者で「不満」と回答するものが多かった。つまり、歯を残して咀嚼能力を維持することが、生き生きとした生活をおくるための条件のひとつであることが示唆されています。

平均寿命が80歳を超える時代となり、「いかに長生きするか」よりも、「いかに充実した人生をおくれるか」に軸足が移りました。生活の質を確保し、自らが望む生活を選択するためには、身体的にも精神的にも自立していることが必須条件です。そのカギを握るのが、人間の根源的欲求である「食」につながる咀嚼機能であり、咀嚼機能のもつ広範な重要性が再認識されることを期待します。

 

参考文献

1)平井敏博、田中 収、他:高齢者の咀嚼機能と精神活動、日口科誌、37:562~570、1988.

2)寺岡加代、柴田 博、他:高齢者の咀嚼能力と身体状況との関連性について、老年歯学、11(3):169~173、1987.

3)新開省二、渡辺修一郎:地域高齢者における「準寝たきり」の発生率、予後および危険因子、日公衛誌、48(9):741~752、2001.

4)吉田光由、中本哲自、他:歯の喪失と生活の満足感、老年歯学、11(3):174~180、1997

5)中村嘉男、森本敏文、山田好秋編:基礎歯科生理学 第4版、医歯薬出版、東京、2003

6)岡崎好秀:謎解き口腔機能学、クインテッセンス出版、東京、2003

7)河野正司監訳:唾液、歯と口腔の健康、医歯薬出版、東京、1999.

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